少し前のブログにも書いたのですが、2月のある朝、目が覚めた瞬間に「西の魔女が死んだ」という言葉だけが、くっきりと頭に残っていました。
その後、オラクルカードを引くたびに「察知しなさい」と告げるカードが続けて現れ、私は背中を押されるように、DVDと本を取り寄せたのです。
物語の終盤、画面に浮かんだ文字――
「ニシノマジョカラ ヒガシノマジョヘ オバアチャンノ タマシイダッシュツ ダイセイコウ」。
その瞬間、胸の奥に浮かんだのは、三年前に亡くなった姪の顔でした。
なぜ今、彼女なのだろう…。
そう思いながら気づいたのです。
私はずっと、「あの時、もっと違う言葉をかけられたのではないか」という思いを握りしめていたのだと。
あの夏の日、愚痴をこぼす姪に私は正論をぶつけました。
ただ隣で頷くこともできたのに。
それが、私と姪の最後の時間になりました。
「また今度ね」と別れた、その“今度”は、もう来ませんでした。
ほんの小さな場面なのに、心の奥に引っかかり続けていたのです。

不登校になり、森で暮らすおばあちゃんのもとに身を寄せた舞。
「魔女になりたい」と願う舞に、おばあちゃんは修業の第一歩としてこう語ります。
魔女になるために必要なのは、物事の正しい方向をキャッチするアンテナと、何事も自分で決める力。
そして、もうひとつ。
「直感は大切だが、取り憑かれてはいけない」
舞が、自分の疑念こそが真実だと強く訴えたとき、おばあちゃんは静かに言います。
「あまり上等じゃない魔女たちは、そうやって自分の妄想に取り憑かれて自滅していきましたよ」と。
その言葉は、私の中にも静かに響きました。
直感は大切な羅針盤。
けれど、不安や恐れ、後悔や疑念と結びついたとき、それは心を重くする。
私は、姪への後悔という「重り」をずっと手放せずにいたのかもしれません。
死ぬということは、魂が体から離れて自由になること。
だとしたら、生きているあいだに、心を縛るものをほどいていくこともまた、大切なのだと思いました。
この物語は、自分で立つことを教える話です。
でも、物語の最後におばあちゃんが遺した「魂の脱出、大成功」という言葉は、私に別の響きを届けてくれました。
それは、あの子のことだけではなく、残された側の魂のことでもあるのではないかと感じたのです。
悲しみに閉じ込められたままではなく、生きている側がもう一度息をすること。
姪が亡くなって二年目、東京からの帰りの電車で、偶然兄の姿を見ました。
深く沈んだその背中を見たとき、言葉より先に湧いた想いがありました。
兄を、もう一度心から笑わせたい。
そして、心を閉じてしまった義姉が、安心して息をできる場所をつくりたい。
その思いは、後に参加したレイキのセミナーで聞いた「一人でもいい、そばにいる人をニコッとさせること。それが安心立命ではないか」という講師の言葉と重なり、ハッとするような驚きに包まれました。
自分の中にあったものを、外側から確かめられたような気がしたのです。
姪の人生が本当の意味で短かったかどうかは、私には分かりません。
二十代という若さだけで、その魂の歩みを測ることはできない。
ただ確かなのは、彼女が私の中に種を残したということです。
弱音を吐けない人の隣にいられる人になりたい。
その原点には、あの子がいます。
西の魔女は死んだ。
でも物語は終わらない。
西から東へ渡されたものは、悲しみそのものではなく、悲しみの中で灯りになる在り方だったのかもしれません。
あの朝の夢は予言ではなく、許可だったのだと思います。
もう前に進んでいい、と。
自分の直感(アンテナ)は信じる。
けれど、それを誰かを責める正義にも、自分を縛る後悔にも変えない。
何事も自分で決め、自分の機嫌を自分で取りながら、軽やかに生きていく。
『魂の脱出、大成功!』
それはきっと、今を生きる私へのメッセージだったのかもしれません。
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